2024年8月18日にフランスだけではなく世界の大スターであった俳優アラン・ドロンが88歳、リンパ腫のため亡くなりました。
この日フランスのテレビでは、アランドロン死去のニュースが1日中流れるはど、彼の存在がいかに大きかったかを感じます。
俳優としての素晴らしい経歴は世界中で知られていますが、子供3人との関係は複雑でした。
2019年大病後の日本女性とのことや子供との関係、生前に語った死後のことなど、フランスでしか知られていない情報をお伝えします。
フランス映画界の巨星、アラン・ドロン逝去
2024年8月18日、フランス映画界の伝説的な俳優アラン・ドロンが、ご自宅のあるフランスのドゥシー(Douchy) で午前3時、88歳でこの世を去りました。
彼の死はフランス国内外に衝撃を与え、多くの映画ファンや同僚たちに深い悲しみをもたらしました。
アラン・ドロンは約70年にわたってその魅力的な演技と圧倒的な存在感で多くの人々に愛されました。
彼の死因はリンパ腫によるもので、彼の息子アントニー・ドロンがAFP通信にこの事実を発表しました。
ドロンは、1960年代から世界中で活躍した俳優であり、その美しい容姿と強烈なカリスマ性で瞬く間にスターダムに上り詰めました。
「太陽がいっぱい」「さらば友よ」「冒険者たち」などの名作で主演し、観客を魅了しました。
特に、1963年に公開された「太陽がいっぱい」では彼の若き美貌と冷酷なキャラクターが見事にマッチし、映画史に残る名演技を見せました。
私もフランス語を学び始めた頃、この映画のセリフを真似してフランス語を勉強したことを思い出します。
また、1970年代には「シシリアン」「サムライ」などの犯罪映画でもその才能を発揮し、フランスのみならず世界中の映画ファンに強烈な印象を残しました。
しかし、彼のキャリアは華やかな映画スターとしての側面だけではありませんでした。
ドロンは、俳優としての成功だけでなく、映画制作やビジネスでも成功を収め、長いキャリアを通じてフランス映画界の重鎮としての地位を確立しました。
アラン・ドロン 家族との関係
アラン・ドロンの家族関係は、彼の私生活を巡ってしばしばメディアで注目を集めました。
彼は3人の子供を持ち、特に息子たちとの関係は複雑で、時には激しい対立が報じられることもありました。
ドロンは最初の妻ナタリー・ドロンとの間に1964年に長男アントニーをもうけました。ナタリーとの結婚生活は5年間続きましたが、その後、別々の道を歩むことになります。
1990年には、モデルのロザリー・ヴァン・ブレーメンとの間に娘アヌーシュカが誕生し、続いて1994年には息子アラン・ファビアンが誕生しました。
ドロンは3人の子供を持つ父親でしたが、特に息子たちとの関係は波乱に満ちていました。
長男アントニーとの関係は特に険悪であったと言われており、アントニーが幼少期に父親から厳しいしつけを受けたことが、後の対立の原因の一つともされています。
1980年代には、アントニーが父親に無断で「ドロン」の名前を使ったブランドを立ち上げた際、アラン・ドロンは息子を訴え、法廷で対決することになりました。この出来事は大きな話題となり、ドロン家の内情が公にさらされることとなりました。
次男のアラン・ファビアンとの関係もまた波乱に満ちていました。
アラン・ファビアンは、2019年に出版した小説『De la race des seigneurs』で父親との関係を赤裸々に語り、父親の厳しさや冷徹さを非難しました。
彼は18歳で家を出て、父親から自立することを選びましたが、彼の告白によれば、その過程で父親からの愛情やサポートは感じられなかったと言います。
愛娘アヌーシュカとの特別な絆
一方で、娘のアヌーシュカとは特別な絆がありました。アラン・ドロンは彼女に対して深い愛情を抱いており、公然と「彼女は私の人生の女性だ」と述べていました。
彼女に対する信頼は非常に厚く、自分の遺言執行人として彼女を選びました。彼は、アヌーシュカが家族の未来を守り、彼の意志を正しく実行することができると確信していました。
アヌーシュカは父親の信頼を裏切ることなく、家族ビジネスを支える重要な役割を果たしていました。
彼女は「アラン・ドロン・インターナショナル・ディストリビューション」のマネージャーを務め、父親の名声と遺産を次世代へと引き継ぐべく活動していました。
アラン・ドロンは、彼女が冷静で強い女性であることを誇りに思い、自分が亡くなった後も彼女が家族を支えるだろうと確信していました。
息子たちとの葛藤と和解への道
アラン・ドロンの息子たち、特にアントニーとアラン・ファビアンとの関係は、生涯を通じて困難であり続けました。しかし、晩年にはある程度の和解が見られました。
アントニーは、父親の厳しさを公に批判しつつも、最終的には彼を理解し、尊敬の念を抱くようになったと語っています。また、アラン・ファビアンも、父親との対立を乗り越え、彼に対する複雑な感情を整理しつつありました。
アラン・ドロンは、自分が「普通の父親ではなかった」と何度も語っており、自らの厳しい性格が息子たちに苦しみを与えたことを認めていました。
彼は「もし違う道を歩んでいたならば、彼らはもっと幸せだったかもしれない」と後悔を滲ませる発言をしていましたが、それでも彼なりの愛情を持って息子たちと向き合っていたことは間違いありません。
遺産を巡る問題
アラン・ドロンは、自分の死後に子供たちが遺産を巡って争うことを強く懸念し、死後の家族間の争いを避けるために、早い段階から遺産相続について明確な計画を立てていました。
ドロンは、アヌーシュカに50%の財産を譲るとし、息子たちはそれぞれ25%ずつを相続することを決定しました。
この決定は、一部の人々からは不公平だと見られましたが、彼は娘に対する信頼と愛情を強調し、その決定に確信を持っていました。
アラン・ドロンと日本女性
アラン・ドロンは2019年に脳卒中を起こした後、日本女性ヒロミ・ロリンとの関係が話題になりました。
彼女はドロンの個人的な秘書や介護者として彼の生活を支えていた人物で、報道によると、二人の関係は職業的なものを超えて親密であったと言われています。
彼女はフランスの映画業界で長年活動してきた女性で、彼女がアラン・ドロンと初めて出会ったのは、1992年の映画『Le Retour de Casanova』の撮影現場でした。そこから二人の関係が始まったそうです。
彼女はドロンの自宅で彼とともに生活し、彼の健康を支える一方で、彼の生活にも強い影響を与えるようになりました。
そして著名人の葬儀など、ドロンの最近の公の場への登場にも必ず同行し、彼女の存在が次第に問題視されるようになりました。
特に、アラン・ドロンの子供たちは、彼女がアラン・ドロンのメールや連絡をすべて管理し、家族との接触を制限していると訴え、2023年に告訴しました。
最終的にはアラン・ドロンが書面で彼女に対して自宅から退去するよう要求したとされています。
このように、ヒロミ・ロリンとアラン・ドロンの関係は、当初は彼の健康を支える心強いパートナーとして見られていましたが、後に家族との深刻な対立を招く結果となり、法的問題にまで発展しました。
彼女の存在がドロンの晩年に大きな影響を与えたことは明らかですが、その影響がポジティブなものであったのか、ネガティブなものであったのかについては、意見が分かれています。
アランドロン 死後の願いと愛する犬たち
アラン・ドロンは、生前から自身の死後に関する計画を練り、家族にその意向を伝えていました。
ドロンは生涯にわたって動物、特に犬への深い愛情を持ち、自宅の敷地内に小さな礼拝堂(シャペル)を建て、その周りに35匹の犬を埋葬しています。
彼は「犬たちは私の礼拝堂の隣に埋葬されている。私はその礼拝堂の中で、犬たちに囲まれて眠りたい」と語っていました。
彼は人間との関係に時折厳しい一面を見せましたが、動物には深い愛情を注ぎ続け、大好きな犬たちと一緒に永遠の眠りにつきたいと希望していたのです。
葬儀は、アラン・ドロンと並ぶフランスの大スター、ジャンポール・ベルモンドが国葬されたことから、アラン・ドロン国葬の話がフランスメディアで報道されていましたが、本人の希望通り政治に関わらず、8月24日17時自宅内の礼拝堂で家族友人のみで行われ、訪問者による写真や動画は一切禁止されました。
日本でも愛され世界の大スターであったアラン・ドロンのご冥福をお祈りいたします。